史力を磨く 第28回
NY歴史問題研究会会長 髙崎 康裕
■ 清潔という美意識 ■
今年の日本の夏は酷暑の日々であったが、同時に西日本の記録的な豪雨災害や、連続して上陸した台風による被害の記憶も抜いては語れない。先年の東日本日本大震災をひくまでもなく、有史以来日本は度重なる火山の噴火や地震に見舞われてきた。それらの天変地異だけでなく、嵐や洪水などの自然界の大きな脅威は、日本人に何か人智を越えた大きな存在の神秘性を感じさせてきたに違いない。そこから人々は自然に対する畏怖の念を持つようになっていったのであろう。
年に何度も襲来する台風の後には、全てが洗い流され、汚れが一掃された世界が出現する。もともと急流の多い日本の河川は時として激流となり、全ての淀みや汚れを呑み込んで押し流し、それを繰り返してきた。そこから太古の人達は、汚れをなくすことこそが神の意に適うことであり、神の命ずるところなのだと解するようになった。同時に汚れをというものを、嘘をつくなど心の汚れと同じものにみなすようになった。禊という概念は、こうしたところから生まれたものであろう。
明治時代に来日したイギリスの外交官であり、数々の日本研究書を著した学者でもあったジョージ・サンソムは、ある時高位の日本の政治家が、天皇に謁見する時には必ず井戸で水をかぶっていることに驚いたという。そして、一般庶民でも、例えば結婚式や上棟式など、あらたまった厳粛な場に列席する時には沐浴をし、下着から衣服を改めて出かけることにも注目をした。やがて彼はこの清潔好きという日本人の習性を独自に調べ、宗教性とは違う、一つの納得できる答えにたどり着く。
臭いから洗うという衛生上の問題でもなく、日本人にとっての沐浴習慣とは、神の前に汚れ穢れた自分を晒すことへの畏れだけではない、一つの道徳なのだという理解である。つまり汚れていることは不道徳なことであり、清潔な自分を相手にみせるということが最高の誠実さの表現なのだということである。「十戒」という神の命令によって行動を律する西洋文明と違って、日本では「きれい」あるいは「汚い」という美的感覚に基づいて自らの行動を律している。これは西洋の世界観を転倒させるような道徳観だと、サンソムは驚嘆した。同時に、その根底に流れるのは神道的世界観であり、「穢れ」に対して敏感で、心を常に清潔に保っておきたいという精神文化が日本文明の根幹にあると分析した。
サンソムの指摘は、日本人の美徳である清廉思想が、古くから何気ない日常の中に深く根付いていたことをうかがわせる。「文明の衝突」と称される現代世界のなかで、日本が日本であり続けるためには、こうした日本独自の価値観も見失ってはならないと思うのである。