歴史力を磨く 第10回
NY歴史問題研究会会長 髙崎 康裕
■ 日本国憲法の出自と限界 ■
周知のように、日本国憲法は日本の大東亜戦争敗戦に伴う占領下で、「日本国が再び米国の脅威となり又は世界の平和及び安全の脅威とならざることを確実にすること」(「降伏後に於ける米国の初期の対日方針」昭和20(1945)年9月22日)の一環として制定されたものである。即ち、日本国憲法は日本敵視・弱体化の所産であるという視点は理解しておかなければならない。
GHQ民政局が日本国憲法の原案を作成するに当たって、責任者のホイットニー准将が昭和21(1946)年2月4日の会議の席で述べたとされる言葉がある。
「本官は、シュープリーム・コマンダー(マッカーサー最高司令官)の意思を体して希望を申し述べたいと思う。2月12日はリンカーン誕生記念日である。リンカーン誕生日に日本側に(草案を)示し、ワシントン誕生日(2月22日)に確定できれば、意義はひとしお深いものになるであろう。そのためには改案は今週末に完成されるべきである」(小島襄『史録 日本国憲法』)
後に我が国の最高法規となる日本国憲法の原案を、ワシントン誕生日やリンカーン誕生日という米国の成り立ちに関わる記念日に敢えて重ねて起草しようというのであった。
この指示に従い、日本国憲法は2月4日から10日までの6日6晩でその原案が作成された。明治憲法が7年の歳月を費やして起草し発布されたのと比べると、その起草期間の短さは際立つが、その理由はそこにある。
更に、日本人にとっての記念日に別の意味を加えることも企図された。4月29日は、言う迄もなく昭和天皇のお誕生日であるが、昭和21年のこの日に極東軍事裁判の起訴状が提出されている。以後、この日は起訴状提出の日として人々に記憶されるようになった。
また昭和23(1948)年12月23日、当時の皇太子殿下(今上陛下)のお誕生日には極東軍事裁判でA級戦犯とされた7名の被告人の絞首刑が執行されている。そしてこの日、国民の祝賀行事は取り止められた。
このように、アメリカ占領軍は、日本からその歴史を奪い、その代わりに自分たちの歴史観を日本に押し付けようとしていた。そのことは、憲法の前文が「アメリカ合衆国憲法」や「アメリカ独立宣言」などの引用で作られ、そこには日本国の歴史や成り立ちへの言及が全く見られないということにも表れている。その思想の下では、国家は長い歴史の所産であり、先祖から引き継ぎ、次の世代に受け渡していく連続性のあるものとは捉えられておらず、逆に日本国の歴史の連続性は完膚なきまでに否定されている。このような国家の連続性を否定し、自国の過去を専ら否定の対象としてしか見ない憲法は、世界でも例を見ない。
日本国憲法の限界は、ここにも見て取れよう。