歴史力を磨く 第17回
NY歴史問題研究会会長 髙崎 康裕
■ 散るぞ悲しき ■
辞世のなかに、忘れられない歌がある。それは硫黄島玉砕時のものである。その戦い(昭和20年2月16日~3月26日)は、大東亜戦争末期の小笠原諸島の硫黄島における日米の戦闘である。日本軍は、22,786名の守備兵力のうち21,763名までが戦死した。この戦闘はまた、米軍地上部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が、日本軍を上回った壮絶なものでもあった。
2月19日、米軍は硫黄島に海と空から猛攻撃を開始したが、硫黄島制圧は数日で終わると思っていた。事実2月23日には擂鉢山頂に星条旗が掲げられた。しかし、その摺鉢山の星条旗は翌24日の朝、日章旗に変わっていた。米軍兵士は仰天した。そして猛攻の末その日章旗を下ろし、星条旗を再び掲げた。だがその翌25日の朝、彼らが見たものは再び掲げられていた日章旗であった。ただその「日の丸」は輪郭がぼやけていた。なぜなら、その「日の丸」は日本軍兵士の血で染められていたからである。再び米軍の猛攻が摺鉢山に加えられた。翌朝、米軍兵士は固唾をのんで摺鉢山を見上げた。そこに三度目の目章旗は揚がってはいなかった。
硫黄島守備隊司令官栗林忠道中将は、昭和20年3月16日の決別電報に次の辞世を残した。
國のため 重き務めを果たしえで 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき
平成六年、天皇皇后両陛下は硫黄島に行幸された。この行幸の際、両陛下は島で次の御製と御歌を謳われた。
御製 精根を込め戦いし人未だ 地下に眠りて島は悲しき
御歌 慰霊地は今安らかに水をたたふ 如何ばかり君ら水を欲りけむ
天皇陛下の御製は、万葉集以来の天皇と臣下が歌をもって意思疎通をするという伝統にのっとり、栗林中将の最後の思いの「散るぞ悲しき」を受けて詠まれたものである。硫黄島は火山島で雨水以外の飲み水はない。そして将兵が立て籠った地下壕の中は、地熱によって50度を超す猛烈な熱さであった。皇后陛下の御歌は、喉の渇きをこらえて戦い続けた将兵に、まさに彼らがそこにいるかのように、親しく語りかけられている。そしてその喉が渇いた1万数千の将兵の遺骨は、未だ島に埋まったままである。
硫黄島守備隊は、一兵卒に至るまで、一日でも長く硫黄島で戦い抜くことが、東京の学童が疎開する時間を稼ぎ彼等の命を守ることにつながると自覚していた。そして、鉄の暴風の如き猛攻を物ともせずに、死を覚悟して二度も日の丸を掲げた。その摺鉢山の日章旗は、写真には写っていない。しかし、我々日本人が自らの歴史を思い起こせば、必ず再び見えてくる筈である。日本国と日本人の再興を信じ、従容として大義に向かった無名の日本人兵士の姿を、今を生きる私達も決して忘れてはならない。